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島原の乱 天草四郎 キリシタンの反乱

 

 

私の生まれは埼玉県の新座市です。

幼き頃、通っていた保育園のすぐ隣に平林寺と言う格式高いお寺がありました。

天草に来て知ったのですがそこに松平信綱の墓があるそうです。

老中・松平信綱 aka 知恵伊豆。

 

それはさておき、日本の歴史上最大と言われている一揆。島原の乱。

島原(天草)の乱=キリシタンの反乱(宗教戦争)と見解が定着していますが、

一揆が起きた原因には、政治権力や経済的な利害も複雑に絡んでいます。天草の土着領土である志岐豪族も乱に加わっていました。

 

 

 

島原と天草は元々、キリシタン大名であった有馬晴信小西行長の領土で、

キリシタンの信者も多く実在していました。

 

(長崎が南蛮貿易の拠点だったのでハイカラで景気も良く活気があったことでしょう。)

 

1587年に豊臣秀吉がバテレン追放令を表明します。

 

 

宣教師(バテレン)の国外退去を求めるものであったが、

布教に関係しない外国人(商人)の出入りは自由なままであり、

また(強制性を伴わない限りにおいて)個人でキリスト教を信仰すること自体も許されていました。

大名のキリスト教への改宗についても秀吉の許可が必要だったという点を除けば可能でした。

 

政治的圧力によって既にキリシタン大名であった黒田孝高が棄教したり、

高山右近が信仰のために地位を捨てるということもありましたが、

一方で小西行長や有馬晴信のようにキリスト教徒のままでいた者もいました。

 

 

1600年関ヶ原の戦い

 

関ケ原の戦いで小西行長は西軍に参戦し敗北。

東軍・徳川家康に加担し勝利した唐津藩主寺沢広高が天草諸島を統治します。

 

秀吉に始まった禁教政策は徳川幕府によって強化され、

1614年には禁教令が全国に発布されます。

 

同じ頃、日野江城藩主、有馬晴信の息子・有馬直純が自ら領地替えを希望し、

延岡藩に転封となり、代わりに松倉重政が日野江藩主になります。

 

 

松倉重政

 

1615年、豊臣秀頼との大坂の陣では大和・群山城を救援し、道明寺の戦いで後藤又兵衛と戦いその戦功により、肥前日野江藩4万3千石を与えられました。

 

築城の名手と言われた重政は1618年に島原城の建築を開始、日野江城と原城は廃城し、

そこから石材を運搬させ、数多くの人夫を動員して1624年に島原城を完成させます。

 

禄高4万3千石でありながら10万石の大名の城に匹敵する分不相応な規模の城を築いたため、

領民から過酷な搾取を行うこととなった。この際、検知を行い、

領内の石高を実勢の倍近くに見積もり、領民の限界を超える年貢を取り立てた。

 

南蛮貿易の利を得ていた重政は、当初キリシタンを黙認していたが、

将軍徳川家光にキリシタン対策の甘さを指摘されると発奮し、徹底的な弾圧を開始した。

顔に「吉利支丹」という文字の焼き鏝を押す、指を切り落とすなど種々の拷問を行い、

1627年には雲仙岳で熱湯を使ったキリシタンの拷問・処刑を行うなど、

キリシタンや年貢を納められない農民に対し残忍な拷問・処刑を行ったという。

 

 

 

 

松倉勝家

 

重政亡き後、島原藩の2代藩主になった勝家は重政以上に過重な年貢の取り立てや

過酷な労働をさせ領民たちを苦しめていきます。

 

1634年は悪天候と干ばつから凶作となったが、勝家は容赦せず重税を取立て

米や農作物の徴収だけでなく、人頭税や住宅税などありとあらゆる税を新設して

厳格に取り立てたことが多くの記録に残っています。

 

やがて勝家は年貢を納められない農民や、村の責任者である庄屋から、

妻や娘を人質に取るようになったとされます。

 

 

1637年、口の津村の庄屋・与左衛門の妻は身重のまま人質にとられ、冷たい水牢に裸で入れられた。

村民は庄屋宅に集まり何とか年貢を納める方法を話し合ったが、もう出せるものは何もなかった。

庄屋の妻は6日間苦しみ、水中で出産した子供と共に絶命した。

たまりかねた領民は、10月25日ついに蜂起し、代官所を襲撃して代官を殺害した。

これが島原の乱の始まりである。

 

 

 

島原藩では旧有馬家の家臣たちが武士身分から百姓身分に転じ、

地域の指導的立場で密かに反乱計画を立てていました。

天草諸島でも小西行長の改易後、浪人となっていた旧家臣たちが団結していました。

 

 

こうして島原・天草の揆の首謀者たちは島原湾の談合島で会談を行い、

当時隠れキリシタンの間で救世主と呼ばれていた16歳の天草四郎(本名:益田四郎時貞)を

総大将とし勃発。

 

 

 

過酷な労働、多大な年貢の取り立て、飢え、更にはキリシタン大名の弾圧などから

キリスト信者も加わり、島原・天草合わせてその数3万7千人

藩に対しての攻撃が始まります。

 

一揆軍は天草諸島の富岡城を攻撃し、番代の三宅藤兵衛を討ち、落城寸前まで追い詰めますが

防衛の固い富岡城を落とすことは出来ませんでした。

 

藩の討伐軍が近ずいていると知った一揆軍は、島原に渡り有馬家の居城であった原城に籠城。

一揆軍は藩から奪った弾薬など防備に備えます。

 

討伐軍は御書院番頭頭の板倉重昌を平定のため派遣しました。

重昌は原城を包囲し総攻撃を行いますが城の守りは固く、団結力の高い一揆軍に翻弄します。

 

 

討伐軍は島原の乱の為だけに集められた九州諸藩の軍であり、

団結力も弱く戦意も低い。言い方を変えればやる気のない討伐軍でした。

 

これはダメだと幕府は老中・松平信綱を派遣。

信綱はかなりの切れ者と言われている人物で信綱派遣の知らせを聞いた重昌は

功を奪われることを恐れ、信綱が来る前に平定しようと更に攻撃を仕掛けますが

策のない強引な攻撃でありこの無謀な攻撃に総崩れし、重昌も討死。

討伐軍も4千人近い死傷者を出したと言われている。

 

12万人の大軍で原城を包囲した信綱は原城に侵入させた甲賀忍者から食料が残り少ないのを確かめ、

兵糧攻めを開始。飢えと寒さで次々と倒れていく一揆軍に総攻撃を仕掛けます。

 

本丸の礼拝堂にいた四郎も鉄砲の銃弾に倒れました。そして原城は落城し、1638年に島原の乱は鎮圧。

 

 

乱の鎮圧後、勝家は肥前唐津藩主・寺沢堅高(寺沢広高の息子)と共に反乱惹起の責任を問われた。

勝家は改易、所領を没収され、斬首刑に処せられた。

この時代、大名が名誉の刑である切腹さえも許されず一介の罪人として

斬首刑に処せられることは異例で、江戸時代を通じてこの一件のみである。

 

 

堅高は勝家より軽い処分となり、天草領4万石を収公されたに留まったが、出仕も許されず、

面目を喪って生き恥をさらす失意の日々を過ごし、1647年に江戸で自殺した。

自殺の原因としては先の天草領没収による精神的動揺が考えられている。

 

 

 

 





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