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新座市にある平林寺と松平信綱の墓

 

 

東京に一時帰ってきましたコロナ風吹き荒れる最中にサバイバルの始まりです。

久々の都会の電車に息苦しさを感じたけど、最善の注意をはらい帰還。

行動範囲が狭まりすが正しい情報と行動、健康なマインドを保って参りましょう。

地元に戻って一番行きたかった平林寺に行ってきたのでご覧ください。

 

 

 

金鳳山 平林寺

 

 

埼玉県新座市野火止にある臨済宗妙心寺派の寺院です。

 

修道道場として僧堂が設置されていて、境内林は、武蔵野の面影を残し雑木林として1968年に国の天然記念物に指定されています。

 

 

 

 

 

 

平林寺境内林(国の天然記念物)

睡足軒(国の登録有形文化財)

平林寺林泉境内(埼玉県指定名勝)

総門(埼玉県指定有形文化財)

山門(埼玉県指定有形文化財)

木造、茅葺、1664年(寛文4年)建立。上層に十六羅漢像を安置する。

仏殿(埼玉県指定有形文化財)

中門(埼玉県指定有形文化財)

戴渓堂

      独立性易(どくりゅうしょうえき)の坐像と独立の念持仏の観音像を安置する。

半僧坊

松平信綱夫妻墓(埼玉指定史跡)

信綱夫妻墓のほか、大河内松平家歴代の墓もある

安松金右衛門墓、小畠助左衛門墓

野火止用水開削の功労者

島原の乱 戦没者供養塔

増田長盛墓川越藩主

松永安左エ門墓

前田卓墓

平林寺文書22通(埼玉県指定有形文化財)

 

 
 

 

 

 

松平伊豆守信綱

 

日本の歴史上最大の一揆 九州”島原の乱”を鎮圧した江戸幕府の老中。

 

「知恵伊豆」と称された松平伊豆守信綱は、幕府の代官である大河内金兵御久綱の長男として慶長元年(1596年)に生まれました。

幼名を長四郎といい同六年、久綱の弟で徳川家一門である「長沢松平」氏を相続していた松平正綱の養子となり同九年七月に家光が誕生すると、信綱は召し出されて家光附きの小姓となりました。

 

 

 

元和六年(1620年)

 

義父である正綱に実子が生まれたので信綱は別家し「大河内松平」を興した。

 

同年五百石、同九年小姓組番頭となり加増されて八百石を知行。同年七月、家光の上落に供奉し伏見において家光が三代将軍になると信綱は従五位下伊豆守に叙任した。

 

寛永元年(1624年)

 

信綱は二千石となり同四年には一挙に八千石の加増をうけて一万石を領した。

 

さらに同七年には五千石を加増されている。この間、信綱の忠義な奉公ぶりと才智は家光の絶大な信頼を得ていた。

家光政権の確立の中で、同年十一月に信綱は老中並となり阿部忠秋・堀田正盛らとともに六人衆に任ぜられ、幕政に参画する。

ついでに十年五月、信綱は一万五千石加増の上、武蔵忍城主となり三万石を領し、更に十二年十一月には信綱は忠秋・正盛とともに老中となった。

こうして信綱は旗本から、幕閣かつ一国一城の主として出世を遂げたのである。

 

 

寛永十四年(1637年)

 

九州の島原の乱が起こり信綱が将として派遣され、これを鎮定した。

 

その功によって同十六年川越城に転封され三万石の加増をうけて六万石を領した。

同二十年、侍従に進み正保四年(1647年)一万五千石を加増されその所領は合わせて七万五千石となった。

 

信綱は三代将軍家光四代家綱の老中として活躍し幕府初期政治の基礎を固め古今の名相とも謳われる一方、郷土の発展に尽くした功績も大きくのちの小江戸と称される川越の基礎をつくり新河岸川の舟運をおこしたり川越街道の整備なども行なっている。

 

 

承応四年(1655年)

 

玉川上水から野火止用水を引き、野火止台地に生活用水を供給し荒野の開発を行なった。

 

信綱はこの野火止台地開発とともに所領の野火止村に菩堤寺である平林寺を岩槻から移転させることを切望したが果たせず寛文二年(1662年)三月に逝去した。享年六十七歳

 

 

 

 

 

松平信綱夫妻墓

 

 

岩槻の平林寺に埋葬されたが子の輝綱が父信綱の運命を守り翌三年に平林寺の伽藍(がらん)および暮石にいたるまで現在地に移建した。

 

島原の乱 戦没者供養塔

 

 

雑木林の平林寺境内林の広さ総面積も13万坪(東京ドーム9個分)

しっかりと整備されている境内林は散歩コースがあって紅葉時期にバッチリ。

天皇皇后両陛下も2回訪れている素晴らしい場所でした。





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